以前すくすくでやってたブログを移行~のはずがうまく出来ないので新たに2として開始^^
~お知らせ~
最近、ドイツなのか英語圏なのかウイルスなのかわかりませんが、トラックバックを貼っていたりコメントが目立ちますので、トラックバックに関しては、管理人が承諾後に許可をすることにします。ひどい場合はコメントも同様の対応をとる場合があります。
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昨日遊んで飲みに行って、夜も遅く寝たのに、朝起きれた
でも、やっぱり疲れは抜けてなくて、博物概論ではしょっちゅう意識が・・・段々あのおっちゃんから面白さが抜けていってる
2限のチョムスキーは真剣に見たけど。さすがに先週注意しただけあって、前回のおしゃべりな人は僕の前にはいませんでしたね(笑)チョムスキーさん、あなたはきっと偉大です。皆極端すぎます。なぜ主張を0か1で捉えるのでしょうね。どうして、その主張を元に行動すればいいのか求めるのでしょうか。すべてを他人の意見で動こうなどとどうして考えるのでしょうか?
とか考えながら、その後の考古学的史料についての説明で驚かされた。
埴輪ってほとんどが想像だっただなんてほんのちょっとの破片からすべてを再現・・・無茶だ。と思ってしまうよね。あれは。うーん、今までだまされてたなぁ。あれがすべてだと思い込まされていたことに少し驚く。教育=洗脳はあながち間違いではないのかも。まぁそれが当てはまるということは、その授業自体も洗脳と言うことになるんだけどね。自己矛盾。
(以下長いです。葡拿寡ワールドとなるため、興味のない方は引き返してください)
で、3限の前の出来事。
中国語特修で、他学部の友達がいるんですが、最近、昼休みに2限の授業の内容についてすこし話するんです。ってか持ちかけられるんだけどね。
で、今日見た映像の中で「虐殺」のシーンがあったんですよね。ガリガリにやせこけた死体を人間が捨てる。そして、死体だけで構成された土手みたいなのが・・・
そのシーンについて「気持ち悪かったよな?ああいうの見たら吐き気するわ」って言われました。
「気持ち悪かったよな?」と言われると困ります
別に気持ち悪いとは思いませんでした。むしろマジマジと見ます。
性癖とかで残虐なのが好きってわけじゃありません(多分だけど)ああいうシーンをまともに見れないことが、当時の人々と同じだと僕は思うのです。
自分自身じゃないけど、人間や人間に対してやった行動。それを実際に行った人間がいて、指示した人間がいる。人間の中にはどこかそういった凶悪性が含まれている・・・
そのことに目を背けたくない。
きっと誰もが持ってるし、その中には自分も含まれている。その凶悪が自分自身の中で目覚めないとも限らない。だから、そういう映像を見る機会があれば必ず見る。凶悪ってやつが何なのか。たとえヤツが出てきても対抗できる術を見つけるために。
だから、ああいう映像を見ても平気だと言い張ります。本当は平気じゃないのかも知れないけど。そういうときっと「こいつヤバイんじゃないか」とだけ思われるでしょうが・・・
自分の残忍性や凶悪性、不完結性や不完全性に向き合わないことは非常に恐ろしいことだと思います。
ん・・・だけど、こういうと自分の主義にちょっと反する。
人間ももともとは野生だったのだから本能で動くべきだと考える一方、理性で押えまくろうとする自分がいるのですが・・・
本能を殺すことはよくないと思います。人間も本来備えている能力を保持すべきだと。だけど、それをなるべく殺そうとするのが社会です。そして、本能だけで行動すると生きていけなくするのが法律です。
私は法律が嫌いです。(法律に関わる皆さんスイマセン。ただ意味があるんです)でも、法律は守ります。
これでも一時法律家を目指そうかと思った時期もあるのです。でも、今の考えに至って、法律家なんて目指すものかと思ったのです。法律はラスボスです。
詳しくはここでは書ききれません。人間の本能と社会、そして本能を殺す社会の根源はって話しになっていってしまいます。あくまでも一個人の人間の考えですが・・・
まぁ、自己矛盾を含みながらも、考えてしまうのです。
自分の残忍性や凶悪性、不完結性や不完全性に向き合わないことは非常に恐ろしいことだと。
僕はある時期になると自分の中の悪魔が目覚めそうになると感じるときがあります。すごく残忍な考え方に偏ってしまう。すごく攻撃的な考えになってしまう。その時、自分自身が自分でなくなったらどうしようと昔は恐怖を抱いていましたが、今はある程度自分の中で分析が出来て、うまくコントロールしているほうだと思います。
きっと、そいつに全く気付かずに支配されてしまうと、昨日のような事件が発生するのです。
いや、これは一部の人間に限ったことじゃなくて、今の日本の社会の構造に組み込まれている人間ならば、全員にその因子があります。
だって、今の日本の教育は基本的にエリートとそうじゃない人を作る構造でしょ?建前はそうじゃないと言い切っているが、そうなっていない。エリートは完全性を求められ、欠点を非常に恐れる。褒め称えられ、常に周りから尊敬され続けて育つ。逆に、落ちこぼれ扱いされる人は、どんどん自分の能力の低さを実感し、自己の殻を作って、頑張って改善しようとしなくなる。出来ないと決め込んでしまう。
エリートは鼻を折られたとき。落ちこぼれは、最後の砦、存在を否定されかかったとき。
心は完全に悪魔が支配する。今までに気付かずに、ずっと育て続けてきた悪魔が。
まぁ本人だけの問題じゃないよ。周りがそのようにしてしまったっていうのもあるはず。
本人達も自分の悪魔に気付く機会がなかったって言う不幸さもあるだろうけど。
結構自分自身が認めたくない自分の欠点ってあるよね。でもそれが固執してしまう場合がある。悪魔はそこに巣を作る。どうしようもなくその悪魔は自分の中で影響力を増してくる。やることなすことすべてがうまくいかないように感じ、自分だけが不幸を経験しているような感じになる。
これを現代医療では鬱とか被害妄想とか言うんだろうけど。そんな簡単にケリをつけることじゃない。あの恐怖と苦しみはとてつもない。
「人を殺すのは誰でも良かった・・・」
この言葉を単に気がおかしいと捉えて、切り捨てることがおかしいと思う。その精神状態になるまでどんな道のりがあったのか。単なる快楽犯は別としても今回の秋葉原の事件はそうじゃない。
「いい人を演じるのは簡単」
そんな趣旨のカキコミがあったと新聞で見た。これが彼の本心をちょっとでも表しているのなら、彼は自分自身を少しは客観的に見たはず。いや、少なくとも周りの反応を読み取れる。だけど表現するのが苦手。そして、いざこざが大の苦手。
いい人演じると楽なんだよね。自分の悪魔に気付きながらもそれを隠していい人を演じる。いい人はいい人だから。
そして、そうやって、悪魔に気付きながらもどうしようもなく過ごすと、悪魔に乗っ取られる。
その悪魔は、不のエネルギーを養分としつつも、育てる援助をしているのは社会そのものであり、経済システムもその一助。数値化するこの世の中では、必ず数字の高い低いが出る。
かといって、同じ数字じゃ皆が納得はしない。
まぁ僕自身は、悪魔としているけど、他の人は悪魔じゃないかもしれないけど。
ただ、自分自身を考えたとき、本当にバカでよかったと思えることがある。
こういうどうでもいいことでも考えてしまうほどのバカだったってことが。
きっと、あの時いろいろなきっかけがなくて、何も変わろうとしなければ、今頃自分は崩壊していたと思う。それこそ、社会の餌食となり、自分自身は消え去る。
たまたま、考えるってことを知って、文章を書くってことを知って、人がそれぞれ違うことを考えるって知って、悪魔が心の中に全員持っているって知って、人との関係って何かって知って、世の中には上には上がいる、その逆もしかりって知って、様々な学問があるって知って・・・
たまたま、人に流されて。
中学と高校の経路を知るものは、人に流されてよくいい方向に行ったなといいます。いい方向かどうかわかりませんが、生きながらえてはいますね。
いろいろなことを知ったのは、日常の経験でもあり、評論文の問題である。いや、参考書かな。参考書のコラムだけは読むの好きだったから。新聞のコラムもかな。そして尊敬すべき先生達かな。
ずっと昔、誰かが言ってた。
「人が怒られていることを自分には関係ないって思うなっ。このクラスで一人のヤツがやってることを周りの皆が黙認してるってことは皆それをやるってことや。他人も自分と同じや。自分も他人と同じや。わかったか!」
いや、このまま言ってたかどうかわかりませんが、こんな感じのこと言ってました。なんかこの言葉だけは素直に信じましたね。だから、ずっと人が怒られている内容や注意されている内容、特にHRに関わってくるようなやつは聞いてましたね。わが身だと思って。
反省すらしてました。なぜダメなのか。なぜ怒られるのか。おかしいと思ったら他人のことですが反論したこともありました。
だから、いつも思うのです。
社会って冷たいなって。
通り魔=凶悪犯
こんな等式なんてオカシイ。通り魔=社会の犠牲者だと思います。
別に通り魔を援護しているわけじゃありません。
理由はわからないけど、きっと人を殺してはいけません。通り魔もしていいことじゃないんでしょう。だから、それをした人は、法律というラスボスに裁かれるのです。それはそれできっと秩序を守っていく、強いては我々が生きていく上で必要なことなんでしょう。
僕が対象とするのは、通り魔ではなく、社会のほうです。つまり、犯人以外達です。
この犯行に対する、我々の反応はどうなのですか、ということです。
ひどいですね。怖いですね。
確かにそうです・・・がその先は?言葉にしなくてもきっと何かを感じ取ってますよね?僕の周りにいる人たちはそうであると信じています。きっと何かを感じ取っています。
だけど、そうじゃない人間がいましたよね。事件現場の中継に映りこむのに必死なヤツ。笑顔で映ってるやつ。ピースしてるやつ。
・・・
なんでしょう?この感情は?
怒り?いや。
悲しみ?いや。
あきれ?いや。
・・・
あらゆる意味での失望かもしれません。
そうして、このように感じながらも、自分は自分で自分に与えれた課題をこなしている自分。
それが厭でもあります。
本当にいつも日記が長くなってしまいますが、これは自分自身への勝負でもあるのかもしれません。冒頭に長いですとつけておくべきか。
今日の思考はここで終わりです。
でも、こういう考えを話しながら言うことは出来ないんです。頭の中でさまざまな考えが浮かんで混乱する。だからゆっくりと沈着させていくのです。
ただ、空を見る。
あの先には何があるのだろう。
今見えているものは本当なの?
空の色は?
自分の心の色。
雲は出来事。
チクチク思い出させる。
雲のない日は少ない。
それほどこの社会に浸かっている。
抜け出したい。
でも、それは出来ない。
だったらどうすればいい?
空のように広く、すべてを見よう。
空さん。あなたの次くらいに色々なものを見たいです。
どうかその術を少しだけでもいいから教えてください。
あなたは私の師です。
でも、やっぱり疲れは抜けてなくて、博物概論ではしょっちゅう意識が・・・段々あのおっちゃんから面白さが抜けていってる
2限のチョムスキーは真剣に見たけど。さすがに先週注意しただけあって、前回のおしゃべりな人は僕の前にはいませんでしたね(笑)チョムスキーさん、あなたはきっと偉大です。皆極端すぎます。なぜ主張を0か1で捉えるのでしょうね。どうして、その主張を元に行動すればいいのか求めるのでしょうか。すべてを他人の意見で動こうなどとどうして考えるのでしょうか?
とか考えながら、その後の考古学的史料についての説明で驚かされた。
埴輪ってほとんどが想像だっただなんてほんのちょっとの破片からすべてを再現・・・無茶だ。と思ってしまうよね。あれは。うーん、今までだまされてたなぁ。あれがすべてだと思い込まされていたことに少し驚く。教育=洗脳はあながち間違いではないのかも。まぁそれが当てはまるということは、その授業自体も洗脳と言うことになるんだけどね。自己矛盾。
(以下長いです。葡拿寡ワールドとなるため、興味のない方は引き返してください)
で、3限の前の出来事。
中国語特修で、他学部の友達がいるんですが、最近、昼休みに2限の授業の内容についてすこし話するんです。ってか持ちかけられるんだけどね。
で、今日見た映像の中で「虐殺」のシーンがあったんですよね。ガリガリにやせこけた死体を人間が捨てる。そして、死体だけで構成された土手みたいなのが・・・
そのシーンについて「気持ち悪かったよな?ああいうの見たら吐き気するわ」って言われました。
「気持ち悪かったよな?」と言われると困ります
別に気持ち悪いとは思いませんでした。むしろマジマジと見ます。
性癖とかで残虐なのが好きってわけじゃありません(多分だけど)ああいうシーンをまともに見れないことが、当時の人々と同じだと僕は思うのです。
自分自身じゃないけど、人間や人間に対してやった行動。それを実際に行った人間がいて、指示した人間がいる。人間の中にはどこかそういった凶悪性が含まれている・・・
そのことに目を背けたくない。
きっと誰もが持ってるし、その中には自分も含まれている。その凶悪が自分自身の中で目覚めないとも限らない。だから、そういう映像を見る機会があれば必ず見る。凶悪ってやつが何なのか。たとえヤツが出てきても対抗できる術を見つけるために。
だから、ああいう映像を見ても平気だと言い張ります。本当は平気じゃないのかも知れないけど。そういうときっと「こいつヤバイんじゃないか」とだけ思われるでしょうが・・・
自分の残忍性や凶悪性、不完結性や不完全性に向き合わないことは非常に恐ろしいことだと思います。
ん・・・だけど、こういうと自分の主義にちょっと反する。
人間ももともとは野生だったのだから本能で動くべきだと考える一方、理性で押えまくろうとする自分がいるのですが・・・
本能を殺すことはよくないと思います。人間も本来備えている能力を保持すべきだと。だけど、それをなるべく殺そうとするのが社会です。そして、本能だけで行動すると生きていけなくするのが法律です。
私は法律が嫌いです。(法律に関わる皆さんスイマセン。ただ意味があるんです)でも、法律は守ります。
これでも一時法律家を目指そうかと思った時期もあるのです。でも、今の考えに至って、法律家なんて目指すものかと思ったのです。法律はラスボスです。
詳しくはここでは書ききれません。人間の本能と社会、そして本能を殺す社会の根源はって話しになっていってしまいます。あくまでも一個人の人間の考えですが・・・
まぁ、自己矛盾を含みながらも、考えてしまうのです。
自分の残忍性や凶悪性、不完結性や不完全性に向き合わないことは非常に恐ろしいことだと。
僕はある時期になると自分の中の悪魔が目覚めそうになると感じるときがあります。すごく残忍な考え方に偏ってしまう。すごく攻撃的な考えになってしまう。その時、自分自身が自分でなくなったらどうしようと昔は恐怖を抱いていましたが、今はある程度自分の中で分析が出来て、うまくコントロールしているほうだと思います。
きっと、そいつに全く気付かずに支配されてしまうと、昨日のような事件が発生するのです。
いや、これは一部の人間に限ったことじゃなくて、今の日本の社会の構造に組み込まれている人間ならば、全員にその因子があります。
だって、今の日本の教育は基本的にエリートとそうじゃない人を作る構造でしょ?建前はそうじゃないと言い切っているが、そうなっていない。エリートは完全性を求められ、欠点を非常に恐れる。褒め称えられ、常に周りから尊敬され続けて育つ。逆に、落ちこぼれ扱いされる人は、どんどん自分の能力の低さを実感し、自己の殻を作って、頑張って改善しようとしなくなる。出来ないと決め込んでしまう。
エリートは鼻を折られたとき。落ちこぼれは、最後の砦、存在を否定されかかったとき。
心は完全に悪魔が支配する。今までに気付かずに、ずっと育て続けてきた悪魔が。
まぁ本人だけの問題じゃないよ。周りがそのようにしてしまったっていうのもあるはず。
本人達も自分の悪魔に気付く機会がなかったって言う不幸さもあるだろうけど。
結構自分自身が認めたくない自分の欠点ってあるよね。でもそれが固執してしまう場合がある。悪魔はそこに巣を作る。どうしようもなくその悪魔は自分の中で影響力を増してくる。やることなすことすべてがうまくいかないように感じ、自分だけが不幸を経験しているような感じになる。
これを現代医療では鬱とか被害妄想とか言うんだろうけど。そんな簡単にケリをつけることじゃない。あの恐怖と苦しみはとてつもない。
「人を殺すのは誰でも良かった・・・」
この言葉を単に気がおかしいと捉えて、切り捨てることがおかしいと思う。その精神状態になるまでどんな道のりがあったのか。単なる快楽犯は別としても今回の秋葉原の事件はそうじゃない。
「いい人を演じるのは簡単」
そんな趣旨のカキコミがあったと新聞で見た。これが彼の本心をちょっとでも表しているのなら、彼は自分自身を少しは客観的に見たはず。いや、少なくとも周りの反応を読み取れる。だけど表現するのが苦手。そして、いざこざが大の苦手。
いい人演じると楽なんだよね。自分の悪魔に気付きながらもそれを隠していい人を演じる。いい人はいい人だから。
そして、そうやって、悪魔に気付きながらもどうしようもなく過ごすと、悪魔に乗っ取られる。
その悪魔は、不のエネルギーを養分としつつも、育てる援助をしているのは社会そのものであり、経済システムもその一助。数値化するこの世の中では、必ず数字の高い低いが出る。
かといって、同じ数字じゃ皆が納得はしない。
まぁ僕自身は、悪魔としているけど、他の人は悪魔じゃないかもしれないけど。
ただ、自分自身を考えたとき、本当にバカでよかったと思えることがある。
こういうどうでもいいことでも考えてしまうほどのバカだったってことが。
きっと、あの時いろいろなきっかけがなくて、何も変わろうとしなければ、今頃自分は崩壊していたと思う。それこそ、社会の餌食となり、自分自身は消え去る。
たまたま、考えるってことを知って、文章を書くってことを知って、人がそれぞれ違うことを考えるって知って、悪魔が心の中に全員持っているって知って、人との関係って何かって知って、世の中には上には上がいる、その逆もしかりって知って、様々な学問があるって知って・・・
たまたま、人に流されて。
中学と高校の経路を知るものは、人に流されてよくいい方向に行ったなといいます。いい方向かどうかわかりませんが、生きながらえてはいますね。
いろいろなことを知ったのは、日常の経験でもあり、評論文の問題である。いや、参考書かな。参考書のコラムだけは読むの好きだったから。新聞のコラムもかな。そして尊敬すべき先生達かな。
ずっと昔、誰かが言ってた。
「人が怒られていることを自分には関係ないって思うなっ。このクラスで一人のヤツがやってることを周りの皆が黙認してるってことは皆それをやるってことや。他人も自分と同じや。自分も他人と同じや。わかったか!」
いや、このまま言ってたかどうかわかりませんが、こんな感じのこと言ってました。なんかこの言葉だけは素直に信じましたね。だから、ずっと人が怒られている内容や注意されている内容、特にHRに関わってくるようなやつは聞いてましたね。わが身だと思って。
反省すらしてました。なぜダメなのか。なぜ怒られるのか。おかしいと思ったら他人のことですが反論したこともありました。
だから、いつも思うのです。
社会って冷たいなって。
通り魔=凶悪犯
こんな等式なんてオカシイ。通り魔=社会の犠牲者だと思います。
別に通り魔を援護しているわけじゃありません。
理由はわからないけど、きっと人を殺してはいけません。通り魔もしていいことじゃないんでしょう。だから、それをした人は、法律というラスボスに裁かれるのです。それはそれできっと秩序を守っていく、強いては我々が生きていく上で必要なことなんでしょう。
僕が対象とするのは、通り魔ではなく、社会のほうです。つまり、犯人以外達です。
この犯行に対する、我々の反応はどうなのですか、ということです。
ひどいですね。怖いですね。
確かにそうです・・・がその先は?言葉にしなくてもきっと何かを感じ取ってますよね?僕の周りにいる人たちはそうであると信じています。きっと何かを感じ取っています。
だけど、そうじゃない人間がいましたよね。事件現場の中継に映りこむのに必死なヤツ。笑顔で映ってるやつ。ピースしてるやつ。
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なんでしょう?この感情は?
怒り?いや。
悲しみ?いや。
あきれ?いや。
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あらゆる意味での失望かもしれません。
そうして、このように感じながらも、自分は自分で自分に与えれた課題をこなしている自分。
それが厭でもあります。
本当にいつも日記が長くなってしまいますが、これは自分自身への勝負でもあるのかもしれません。冒頭に長いですとつけておくべきか。
今日の思考はここで終わりです。
でも、こういう考えを話しながら言うことは出来ないんです。頭の中でさまざまな考えが浮かんで混乱する。だからゆっくりと沈着させていくのです。
ただ、空を見る。
あの先には何があるのだろう。
今見えているものは本当なの?
空の色は?
自分の心の色。
雲は出来事。
チクチク思い出させる。
雲のない日は少ない。
それほどこの社会に浸かっている。
抜け出したい。
でも、それは出来ない。
だったらどうすればいい?
空のように広く、すべてを見よう。
空さん。あなたの次くらいに色々なものを見たいです。
どうかその術を少しだけでもいいから教えてください。
あなたは私の師です。
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プロフィール
HN:
葡拿寡
年齢:
36
性別:
男性
誕生日:
1987/12/02
職業:
大学院生&塾講
趣味:
読書
自己紹介:
大阪市内に住む大学院生です。
専攻は国文学で、「諏方縁起」を中心に研究を進めていました。
しばらく、更新していなかったのですが、やっとこさログインできるようになったので、更新していこうと思います。
専攻は国文学で、「諏方縁起」を中心に研究を進めていました。
しばらく、更新していなかったのですが、やっとこさログインできるようになったので、更新していこうと思います。
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