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2008年6月8日に東京の秋葉原で起きた事件をご存知の方も多いだろう。

戦後最悪とも評されるほどの事件となった。今回の凶悪な事件については、今後さらに詳しいことがわかったいくであろう。現段階では事件の背景など、ほとんどわからないに等しい。かなりの情報が錯綜し、かなりの情報が制限される。その状況下での判断は危険である。

だが、連日のニュース報道はかなりの偏った情報を流し、大衆をコントロールしているように思われる。

事件が起こった当初、秋葉原という場所と関連させてか、犯人は秋葉原にも通う「オタク」というラベルが貼られた。「オタク」文化という言葉が作られたように、「オタク」という言葉にはどこか、普通の人間と思われる人々と区別される。さらには、日本人の中で、いつの間にか生みこまれてしまった、「オタク」の危険性。現実の虚偽の世界の区別がつかなくなっている人が多い、現実逃避しているなどのレッテル。それらを連想させるように、「オタク」というラベルを犯人に貼り付けている。

さらに数日。今度は犯人に「トヨタの派遣社員」という情報が付与された。「オタク」のラベルは、「トヨタの派遣社員」というラベルの下になってしまった。リストラ計画の話、犯行直前の彼の異常な行動。そういったものが報道され、彼自身の異質さを流す。

さらには、小・中・高の話や卒業文集についてが報道される。ここでは、「オタク」の側面や、彼だけの人生の特有性を強調して報道される。

おそらく、これらの情報は情報として、嘘ではないであろう。事実的に存在する。だが、その情報の脈絡はメディアが生み出したものであり、今回の事件といかに関係あるか、については何の保証もない。

もちろん、メディア側もそのことをはっきり言っていない。誰も関係あるなんていってない。ただ情報として流しただけだと主張する。視聴者に勝手に思い込んでもらう細工はしているが、と言った感じである。

今回の事件の内容について、現段階で何か判断することの危険性はここにある。メディアのやり方によって、我々は勝手に脈絡をつくり、真実だと思い込み、犯人像を作り上げている。情報に踊らされている。そのことにも気付かず、我々の多くは、正しい判断をしていると思い込む。もしくは、この事件に対して興味を示さず無知で過ごすかもしれない。

だが、世の中には私のように、メディアとの関係に危惧し、自身の中で主張を持つ人間いるであろう。そしてまた、彼らは彼らで今回の事件について様々な分析をしているだろう。

最初に「オタク」というラベルが貼られ、次に「トヨタの派遣社員」というラベルが貼られたのか。私の聞いた話では次のようなものがあった。

「オタク」は現在の日本の中で、変わったもの、風変わりなもの。現実とバーチャルの区別がつかない。だから、今回のような事件が起きた。そして、「トヨタ」というのは世間にも影響力を示せるほどの大企業。イメージダウンを避けるためにも、最初のほうは報道されなかったという捉え方。

この考え方も一理あると思う。ただし、これは経済という立場から見た考え方であり、かなり表面的な問題を提示しているだけに過ぎない。たとえ、このような風潮を問題視したところで、今後このような事件を防ぐ手立てとはなりえないであろう。この事件の根源について少しも触れられていないためである。

では、この事件の根源に少しでも触れるにはどうすればいいのか。しかし、現段階では事件の情報があまりにも少ないために事件の根源に触れることはほぼ不可能に近い。事件の根源に近づけない以上、表面的にしか考えられないと思うかも知れないが、ほかにアプローチに仕方は存在する。

今回考えたいのは、事件というよりも、メディアと我々大衆との関係についてである。今回の事件をきっかけに、現在問題視すべき課題がはっきりした。だが、そのことは恐らくほとんどの人には気付かれていない問題であるかもしれない。そして、その問題を突き詰めていくことは、この事件の根源を探ることと近いものになると思われる。

まず、「オタク」というラベルを貼ったことについてである。なぜ、メディアは「オタク」というラベルを貼って、視聴者に伝えたのか。それは、我々視聴者を敵に回さないということと、我々を守るためである。

人間は、現在社会の中に構成され、本来野生として備わっていた機能を犠牲にして暮らしている。もちろん、そのことが良いことか悪いことかわからない。ただ、動物の本質として、他を攻撃する衝動、物を破壊する本能を有するものである。それぞれの中に必ず、「危険」とされるものがある。

だが、それを人は認めたがらない。自分にそのような側面があることを、他者にばれることをひどく恐れる。そして、その存在を自分の中でも忘れ去ってしまおうとする。他人に阻害されることをひどく恐れる習慣のある日本人は他者と同じであろうとする。「危険」や「異常」は、自分の存在を脅かしてしまうのだ。

だから、他者が、今回のような残虐とも言うべき事件を起こせば、自分とは関係のない遠い世界で起こったものとして片付けたがる。犯人と被害者が檻の中にいて、視聴者はそれを檻の外からみようとするのである。己の中に備わっている「狂」を遠ざけて、安全なところから傍観する。それを意識せずに自然に行い、それを知ろうとすることを無意識的に遠ざけている。

メディアはそのことを知っている。大衆の反感を買わないようにするには、彼らに檻の外にいると思わせればいい。つまり、メディアが情報を取捨選択して、伝えることによって、檻を作り上げてしまえば、メディアは大衆から反感を買うことがない。また、メディアの檻を大衆は感じ取って、メディアを信頼する。メディアを攻撃することは檻を破壊し、自分にも被害が及ぶ可能性があるからだ。

つまり、メディアは、情報をコントロールし、檻の役目を果たすことで、大衆からの反感を買わずに済み、なおかつ、大衆を自己の「非」を認めることから遠ざけ、尊厳を守る。これが、私の考えるメディアの役目である。つまり、自己防衛というのは、犯人ではなく、メディアが己を守ることと、大衆が己を守るためにメディアに寄りかかることを示す。「持ちつ持たれつ」の関係である。

次に、「トヨタの派遣社員」というラベルを貼ったことについて。第一段階として、大衆に安堵感を与え、見方であることを指示できたメディアは、次に社会問題に対して大衆の目を向けさせる。

「経済格差」である。政府がしっかりしていないから、今回の犯人のように、派遣社員で働き、リストラなどが実施される。彼がその対象であったかどうかよりも、リストラという手段が人間にいかほどのストレスを与えているのか。大企業でもあるトヨタがリストラを考えるほどの経済状況なのかと、様々なことを考えさせるのである。

だが、このレベルはメディアが用意した思考でしかない。

このように社会について考え、問題点を知っていると大衆に思い込ませることが、メディアの狙いなのである。今回の事件では、「派遣社員」という「経済格差」の象徴とでもいえるべき言葉を繋げている。ニート、フリーター、ワーキングプア。社会問題を取り上げるためには、必ず準備運動がいる。今回はこの点で優れていた。

今や、現内閣の支持率はかなり低下してしまっている。国民の不満が高まってきているのは明らかである。そろそろ政治的にも動きがあってもおかしくない。政治運動や社会について考えることに大衆の目を向けさせなければならない。それは、大衆から「本能」を削り取るためである。

先ほど、人間は元々野生であり、本能を持ちうるものとした。この本能は現社会には適さない。経済システムの中に組み込まれ、社会から外れれば除外される。そして除外されたものは行き場をなくす。大衆は、ただメディアの流す主張や主義を我が物のように捉え、現行の社会システムに適した行動さえしてくれれば、メディアは安泰の地位を獲得できる。

本能で動かれ、本能的に戻ろうとされるとメディアは非常に困るわけである。本能に戻ろうとする活動が、行動的、暴力的であれば、法律が自然と取り締まってくれる。メディアが一番恐れるのは、知能で本能へ帰ろうとすることであろう。

言論の自由が認められた社会となっている。確かに、言論の自由は一見すると保障されている。だが、実際はどうであろう。メディアが国民を社会に向けたのは、言論の自由を使って、本能へ帰ろうと唱えようと考えさせないためではないだろうか。現行の社会システムはダメだ、メディアは情報をコントロールしている。などと人々が騒ぎ出し、言論の自由を駆使し、主張してきたらどうであろうか。

メディアは大衆を相手に商売している。現行の社会制度の一部である。いかに攻撃されずに、見方であるか。そんな風に思い込ませることが彼らの狙いである。敵視されては困るのだ。

今回の事件を通して、メディアと大衆の関わり方が見えた気がした。人間を社会システムの中に必死に押さえ込もうとするメディアのやり口としては常套手段である。かなりのメディア批判に聴こえると思うが、このメディアの体質を作り出してしまったのは、ほかでもない、人間である。

人間個々の自己防衛の働きが、集合し組織化してしまった結果でもある。だが、それは現在正常には働いているようには思えない。

今回の事件に関して、社会的な側面、経済的な側面だけを考えていては凶悪事件を減らすことは出来ないであろう。人間個々がそれぞれの「非」の部分に立ち向かい、その「非」が強くなり暴走しそうになったらどうすればいいのか、じっくり向きうしかない。

しかし、現行の社会はそんな時間を与えない。無視し続けることを強要しているのである。

だから、私は、このような事件を減らすことは不可能であると考える。現行の社会制度をすべて取りやめることなど、現状では不可能に近いし、現行の社会制度の中で「非」に向き合うこともなかなか難しいことである。

すべての間違いは「法」を作ったところから遡る。

人間の本能を奪った元凶は一体何なのか。そのことについても今後考えていく必要があるはずだ。
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昨日遊んで飲みに行って、夜も遅く寝たのに、朝起きれたぴかぴか(新しい)

でも、やっぱり疲れは抜けてなくて、博物概論ではしょっちゅう意識が・・・たらーっ(汗)段々あのおっちゃんから面白さが抜けていってるあせあせ(飛び散る汗)

2限のチョムスキーは真剣に見たけど。さすがに先週注意しただけあって、前回のおしゃべりな人は僕の前にはいませんでしたね(笑)チョムスキーさん、あなたはきっと偉大です。皆極端すぎます。なぜ主張を0か1で捉えるのでしょうね。どうして、その主張を元に行動すればいいのか求めるのでしょうか。すべてを他人の意見で動こうなどとどうして考えるのでしょうか?

とか考えながら、その後の考古学的史料についての説明で驚かされた。

埴輪ってほとんどが想像だっただなんてあせあせ(飛び散る汗)ほんのちょっとの破片からすべてを再現・・・無茶だ。と思ってしまうよね。あれは。うーん、今までだまされてたなぁ。あれがすべてだと思い込まされていたことに少し驚く。教育=洗脳はあながち間違いではないのかも。まぁそれが当てはまるということは、その授業自体も洗脳と言うことになるんだけどね。自己矛盾。


(以下長いです。葡拿寡ワールドとなるため、興味のない方は引き返してくださいあせあせ(飛び散る汗)

で、3限の前の出来事。

中国語特修で、他学部の友達がいるんですが、最近、昼休みに2限の授業の内容についてすこし話するんです。ってか持ちかけられるんだけどね。

で、今日見た映像の中で「虐殺」のシーンがあったんですよね。ガリガリにやせこけた死体を人間が捨てる。そして、死体だけで構成された土手みたいなのが・・・

そのシーンについて「気持ち悪かったよな?ああいうの見たら吐き気するわ」って言われました。

「気持ち悪かったよな?」と言われると困りますたらーっ(汗)

別に気持ち悪いとは思いませんでした。むしろマジマジと見ます。

性癖とかで残虐なのが好きってわけじゃありません(多分だけど)ああいうシーンをまともに見れないことが、当時の人々と同じだと僕は思うのです。

自分自身じゃないけど、人間や人間に対してやった行動。それを実際に行った人間がいて、指示した人間がいる。人間の中にはどこかそういった凶悪性が含まれている・・・

そのことに目を背けたくない。

きっと誰もが持ってるし、その中には自分も含まれている。その凶悪が自分自身の中で目覚めないとも限らない。だから、そういう映像を見る機会があれば必ず見る。凶悪ってやつが何なのか。たとえヤツが出てきても対抗できる術を見つけるために。

だから、ああいう映像を見ても平気だと言い張ります。本当は平気じゃないのかも知れないけど。そういうときっと「こいつヤバイんじゃないか」とだけ思われるでしょうが・・・

自分の残忍性や凶悪性、不完結性や不完全性に向き合わないことは非常に恐ろしいことだと思います。

ん・・・だけど、こういうと自分の主義にちょっと反する。

人間ももともとは野生だったのだから本能で動くべきだと考える一方、理性で押えまくろうとする自分がいるのですが・・・

本能を殺すことはよくないと思います。人間も本来備えている能力を保持すべきだと。だけど、それをなるべく殺そうとするのが社会です。そして、本能だけで行動すると生きていけなくするのが法律です。

私は法律が嫌いです。(法律に関わる皆さんスイマセン。ただ意味があるんです)でも、法律は守ります。

これでも一時法律家を目指そうかと思った時期もあるのです。でも、今の考えに至って、法律家なんて目指すものかと思ったのです。法律はラスボスです。

詳しくはここでは書ききれません。人間の本能と社会、そして本能を殺す社会の根源はって話しになっていってしまいます。あくまでも一個人の人間の考えですが・・・

まぁ、自己矛盾を含みながらも、考えてしまうのです。

自分の残忍性や凶悪性、不完結性や不完全性に向き合わないことは非常に恐ろしいことだと。

僕はある時期になると自分の中の悪魔が目覚めそうになると感じるときがあります。すごく残忍な考え方に偏ってしまう。すごく攻撃的な考えになってしまう。その時、自分自身が自分でなくなったらどうしようと昔は恐怖を抱いていましたが、今はある程度自分の中で分析が出来て、うまくコントロールしているほうだと思います。

きっと、そいつに全く気付かずに支配されてしまうと、昨日のような事件が発生するのです。

いや、これは一部の人間に限ったことじゃなくて、今の日本の社会の構造に組み込まれている人間ならば、全員にその因子があります。

だって、今の日本の教育は基本的にエリートとそうじゃない人を作る構造でしょ?建前はそうじゃないと言い切っているが、そうなっていない。エリートは完全性を求められ、欠点を非常に恐れる。褒め称えられ、常に周りから尊敬され続けて育つ。逆に、落ちこぼれ扱いされる人は、どんどん自分の能力の低さを実感し、自己の殻を作って、頑張って改善しようとしなくなる。出来ないと決め込んでしまう。

エリートは鼻を折られたとき。落ちこぼれは、最後の砦、存在を否定されかかったとき。

心は完全に悪魔が支配する。今までに気付かずに、ずっと育て続けてきた悪魔が。

まぁ本人だけの問題じゃないよ。周りがそのようにしてしまったっていうのもあるはず。

本人達も自分の悪魔に気付く機会がなかったって言う不幸さもあるだろうけど。

結構自分自身が認めたくない自分の欠点ってあるよね。でもそれが固執してしまう場合がある。悪魔はそこに巣を作る。どうしようもなくその悪魔は自分の中で影響力を増してくる。やることなすことすべてがうまくいかないように感じ、自分だけが不幸を経験しているような感じになる。

これを現代医療では鬱とか被害妄想とか言うんだろうけど。そんな簡単にケリをつけることじゃない。あの恐怖と苦しみはとてつもない。

「人を殺すのは誰でも良かった・・・」

この言葉を単に気がおかしいと捉えて、切り捨てることがおかしいと思う。その精神状態になるまでどんな道のりがあったのか。単なる快楽犯は別としても今回の秋葉原の事件はそうじゃない。

「いい人を演じるのは簡単」

そんな趣旨のカキコミがあったと新聞で見た。これが彼の本心をちょっとでも表しているのなら、彼は自分自身を少しは客観的に見たはず。いや、少なくとも周りの反応を読み取れる。だけど表現するのが苦手。そして、いざこざが大の苦手。

いい人演じると楽なんだよね。自分の悪魔に気付きながらもそれを隠していい人を演じる。いい人はいい人だから。

そして、そうやって、悪魔に気付きながらもどうしようもなく過ごすと、悪魔に乗っ取られる。

その悪魔は、不のエネルギーを養分としつつも、育てる援助をしているのは社会そのものであり、経済システムもその一助。数値化するこの世の中では、必ず数字の高い低いが出る。

かといって、同じ数字じゃ皆が納得はしない。

まぁ僕自身は、悪魔としているけど、他の人は悪魔じゃないかもしれないけど。

ただ、自分自身を考えたとき、本当にバカでよかったと思えることがある。

こういうどうでもいいことでも考えてしまうほどのバカだったってことが。

きっと、あの時いろいろなきっかけがなくて、何も変わろうとしなければ、今頃自分は崩壊していたと思う。それこそ、社会の餌食となり、自分自身は消え去る。

たまたま、考えるってことを知って、文章を書くってことを知って、人がそれぞれ違うことを考えるって知って、悪魔が心の中に全員持っているって知って、人との関係って何かって知って、世の中には上には上がいる、その逆もしかりって知って、様々な学問があるって知って・・・

たまたま、人に流されて。

中学と高校の経路を知るものは、人に流されてよくいい方向に行ったなといいます。いい方向かどうかわかりませんが、生きながらえてはいますね。

いろいろなことを知ったのは、日常の経験でもあり、評論文の問題である。いや、参考書かな。参考書のコラムだけは読むの好きだったから。新聞のコラムもかな。そして尊敬すべき先生達かな。

ずっと昔、誰かが言ってた。

「人が怒られていることを自分には関係ないって思うなっ。このクラスで一人のヤツがやってることを周りの皆が黙認してるってことは皆それをやるってことや。他人も自分と同じや。自分も他人と同じや。わかったか!」

いや、このまま言ってたかどうかわかりませんが、こんな感じのこと言ってました。なんかこの言葉だけは素直に信じましたね。だから、ずっと人が怒られている内容や注意されている内容、特にHRに関わってくるようなやつは聞いてましたね。わが身だと思って。

反省すらしてました。なぜダメなのか。なぜ怒られるのか。おかしいと思ったら他人のことですが反論したこともありました。

だから、いつも思うのです。

社会って冷たいなって。

通り魔=凶悪犯

こんな等式なんてオカシイ。通り魔=社会の犠牲者だと思います。

別に通り魔を援護しているわけじゃありません。

理由はわからないけど、きっと人を殺してはいけません。通り魔もしていいことじゃないんでしょう。だから、それをした人は、法律というラスボスに裁かれるのです。それはそれできっと秩序を守っていく、強いては我々が生きていく上で必要なことなんでしょう。

僕が対象とするのは、通り魔ではなく、社会のほうです。つまり、犯人以外達です。

この犯行に対する、我々の反応はどうなのですか、ということです。

ひどいですね。怖いですね。

確かにそうです・・・がその先は?言葉にしなくてもきっと何かを感じ取ってますよね?僕の周りにいる人たちはそうであると信じています。きっと何かを感じ取っています。

だけど、そうじゃない人間がいましたよね。事件現場の中継に映りこむのに必死なヤツ。笑顔で映ってるやつ。ピースしてるやつ。

・・・

なんでしょう?この感情は?

怒り?いや。

悲しみ?いや。

あきれ?いや。

・・・

あらゆる意味での失望かもしれません。

そうして、このように感じながらも、自分は自分で自分に与えれた課題をこなしている自分。

それが厭でもあります。

本当にいつも日記が長くなってしまいますが、これは自分自身への勝負でもあるのかもしれません。冒頭に長いですとつけておくべきか。

今日の思考はここで終わりです。

でも、こういう考えを話しながら言うことは出来ないんです。頭の中でさまざまな考えが浮かんで混乱する。だからゆっくりと沈着させていくのです。


ただ、空を見る。

あの先には何があるのだろう。

今見えているものは本当なの?

空の色は?

自分の心の色。

雲は出来事。

チクチク思い出させる。

雲のない日は少ない。

それほどこの社会に浸かっている。

抜け出したい。

でも、それは出来ない。

だったらどうすればいい?

空のように広く、すべてを見よう。

空さん。あなたの次くらいに色々なものを見たいです。

どうかその術を少しだけでもいいから教えてください。

あなたは私の師です。
ミクシーではあまりにも知り合いが増えすぎて、書きたことも書きづらくなる。いろんな場所での人々が入り組んでいるし。

人生はうまくいかないものです。

きっと。

やっぱハグルマなんかな。

自説を説いてみよう。

人生はハグルマ。。。って言うとちょっと誤解がある。ハグルマ自身は人間個々。それぞれが一つのハグルマ。そのハグルマが噛み合って、世界が動く。

だから、人生はハグルマは、生まれたときから死ぬまでずっとハグルマってことです。

そのあなた自身は、ハグルマの化身。ハグルマのままだと動けないからね。人間と言う化身を使って、ハグルマは成長したり、退化したりする。

一度であったハグルマは、かみ合う歯を探す。なんとなくあったり、合致したり、全然合わなかったり・・・あってるような気がしても、もっとよく合う歯があったり。

だから、よりたくさんの歯の形が必要になる人もいれば、すぐに合う形の歯と出くわす人もいる。

でも、すくなくとも、その歯をあわせるためには、回転しておかないといけない。止まってたら、その側面でしか歯は発見できない。


・・・
ん・・・なんかまだ違うんだよ。何か足りない。なんだろう。未完のハグルマ。

なんだろうな。本当に。

ハグルマ。きっと動くんだよ。回転だけじゃなくて、前後左右。上下。あちらこちらに。だから合っている状態を保つの難しいのかも。

はぁ。

めっちゃ久々の更新です。最近ではミクシーでの更新が多いです。

今日は映画を観てきました。

「チーム・バチスタの栄光」

結構面白かったです。一緒に見に行った人が観たかったやつなんですが。逆にこっちがはまってしまいました。

たまには映画もいいですね。

楽しかった。
この日記は大学のパソコンから打ってます。

今日は1・2限にプログラミング入門の授業を受けた後、4限の中国語応用まで授業がないのです。

しかも、プログラミング入門は早く終わっちゃうし・・・こうして暇つぶしです。

でもおなか減った。かなり。

サークルでまた親睦会みたいなのをやるらしいですが、アレルギー上食べられないたこ焼き・・・嫌いで食べられないのなら周りで食べてようが平気ですが、もともとは好物・・・周りでみんなが楽しそうに好物を食べている状況で自分だけだべられない・・・それで親睦をはかれ?無理言うな。

食べ物が目的じゃないからってじゃぁたこ焼きなくしてよ?それができないんでしょ?ほかには?できるじゃん・・・とまぁいやな思いばかりします。

本当にはた迷惑な親睦会・・・もうやつとは連絡をあまりとりません。

サークルってこんなに面倒なものだとは思ってなかった・・・

今回はかなり愚痴です。しかも、詳細がない。だからわからんと思う。
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プロフィール
HN:
葡拿寡
年齢:
36
性別:
男性
誕生日:
1987/12/02
職業:
大学院生&塾講
趣味:
読書
自己紹介:
大阪市内に住む大学院生です。
専攻は国文学で、「諏方縁起」を中心に研究を進めていました。

しばらく、更新していなかったのですが、やっとこさログインできるようになったので、更新していこうと思います。
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