忍者ブログ
以前すくすくでやってたブログを移行~のはずがうまく出来ないので新たに2として開始^^ ~お知らせ~ 最近、ドイツなのか英語圏なのかウイルスなのかわかりませんが、トラックバックを貼っていたりコメントが目立ちますので、トラックバックに関しては、管理人が承諾後に許可をすることにします。ひどい場合はコメントも同様の対応をとる場合があります。
[68]  [67]  [66]  [65]  [64]  [63]  [62]  [61]  [60]  [59]  [58
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今回は「小学校の英語義務教育化」について書いてみようと思う。

現在早ければ二年後に小学校の英語義務教育化を導入しようとしている最中に、新文科大臣が待ったをかけているということらしいです。

このことが反響を呼び、現在さまざまなことが言われているようです。賛成意見、反対意見。

僕は小学校の英語義務教育化は必要ではないと思います。まして、早急に行おうとしてるようですが、またアメリカ産牛肉のような結末になるのでは?
アメリカ産牛肉で起こった事は、確かに輸入停止すれば済む話でしたが、教育となるとそうはいきません。現行の新課程もかなり問題があるように思われます。

英語教育を実施した場合、起こり得る現象に対応できるのでしょうか?

まず問題点としては、現在指導力不足の教員が増えてきて問題になっている中、英語を付加することは不可能ではないのかということです。英語教育には外人講師を招くことも一つの手でありましょうが、それは教員として採用するのでしょうか?もしくは、講師として招くのでしょうか?

二つ目には、定まった目標が無いことです。この英語教育の目標。カリキュラム。それらが統一されていない。それこそ目的が無いまま突き進むことはかなり危険です。

三つ目は、生徒と英語の出来ない教師に溝が出来ること。現状でも生徒とコミュニケーションのはかれない教員が存在し、さらに学級崩壊をおこしている。これらの現状を解決せずに英語教育といってられるのか?

目に見えている問題点はかなり大きい問題点だと思います。ここで英語教育を早急に導入し、日本語がさらに乱れ、若者文化というアイロニーを使って表現出来ないことにないかねます。

現在僕は18歳。今年19歳になります。現行の教育課程を導入されたのが中学三年生。その頃のことをよく覚えています。教科書が急にカラーに変わり、土曜日が毎週無くなった。当時の僕らは喜びました。土曜が休みだ!と単純に。そう僕らは喜んだのです。ところがどうでしょう?家系的に余裕もあり、塾に通っているほかの生徒達と大きな学習環境に差が出来たのです。

当時僕たちは先生から、「学校が休みになってよかったな。先生らも休みやから嬉しいわ」と言っていました。ゆとり教育で家庭学習をという理念を耳にすることがない。ニュースで叫ばれているのはどこか遠くの話で身近では喜びとしか受け取られていない。つまりゆとり教育が生んだもの、それは学習環境の差でしかないのです。独学で勉強するのと、研究を積んだ人から教えを受けるのでは断然の違いが出ます。効率も抜け度もかなり低くなります。

高校三年間は現行の新課程を受けて育ちました。ただ僕は幸い私立高校に進学しましたので、土曜日も授業はありました。しかし、家庭に余裕があるわけではなく、すべて奨学金で通いました。返済していかねばならない額はかなりあります。そして公立と私立の設備の違いに驚きました。

はっきり言って公立の設備と私立の設備は、自転車と車くらいの差があると思います。公立の設備はどう考えても最低限です。形而下してしまったものにしかみえない。そのせいか、進学を目指す高校では、土曜日に希望者から月額2万を徴収して、予備校講師に授業してもらうという制度をとったりしていました。これはあきらかに、公立としてはありえないことですよね?むしろ、その制度上の制限では出来ないと自白しているようなものです。そして公立の空調代。年間一人あたり6千円。6千円ですよ!?夏と冬しかつけない。先生によっては教室はつけない先生もいる。これは明らかにぼったくりでしょう。

公立の現状はかなりひどい状態だと思われます。先ほど述べたことは高校に関してですが、おなじ公立として根本につながりがあるはずです。

そして、個人的な意見としては、英語だけを強制するのはどうかと思います。生きていく上での言語として日本語は必修であることは日本人として逃げられない現状だと思います。しかし、外国語を学ぶということは興味の問題もあると思います。外国語への嫌悪感を抱いてしまっては吸収できないと思います。

「幼いときは吸収力がすごいからそこから教育すればいい。」

なんと安直な考えなんでしょう。これは、勉強が出来ることしか知らない人が言う言葉なんではないのでしょうか?
はっきり言って、その理論が成り立つのなら、何故間違った日本語を使うものが多い?何故苦手科目が生まれる?幼いときからの教育は今後受けていく教育の基礎、土台となるでしょう。しかし、勉強は果たして土台が出来ればそれで成立するのですか?
僕は、はっきり言って、勉強できない子でした。勉強をしないからだとお偉い方は決め付けていらっしゃるでしょう。確かに勉強はしませんでした。しないからいざするときやり方がわからず、余計にやらなくなる。教科書を読んだところで何を書いているか、はっきり言ってさっぱりわからない。教科書を見ながら問題を解いても解けるはずが無い。しかし、僕が勉強しなかったのは、勉強する意義がわからないから。勉強はやらされるもの。レールがしかれていて、それ以上は許されない。そして、教師達のやるのがあたりまえだ。俺が偉い。お前らは俺らの言うことを聞け。こういう態度。公立の現状だと思います。勉強する意義を教わる機会や発見する機会がなかった。なぜなかったのでしょう?それは教師達に教育について同じ考えを持たせる事が出来ない日本の教育の現状があるからでしょう。僕のようなことは一例ではないと思いますよ。

人が勉強の意義を見つけ出すのは一体どういう機会かわかりません。しかし、僕が勉強する意義を発見したのは、地元の小さな塾でした。塾には勉強する環境があった。それもあるが、やることがたくさんあった。いや、やれることがたくさんあった。その中の一つに自分の興味を見つけた。でもそれを知るには、他のことも包括的に考えなければ理解できそうもない。一体どうすればいいんだろう?勉強って?そう思ってから意識の変革が起こりました。中学の内容なんて「幕の内弁当」。これは塾の先生が使った例えです。僕はなるほど。と思った。大きくあるはずのものをちょっとずつ寄せ集める。これが中学の勉強なのだ。そう思って勉強すれば理解できるようになった。

現行の教育課程では結局学ぶ目的を見出せなかった。助けられたのは塾の先生。しかし、現行の教育課程で目標を見つけられないが、勉強はする人がいる。現在スチューデントアパシティーと呼ばれる現象がそれではないか。目的をもたず、意義を知らず、勉強だけしてくるから目標を見失う。目標の無いたびは進まないし、終わらない。やる気なんて起きない。

そして、大学受験をする身にとって言わせてもらうと、小学校の英語は外国語に対する嫌悪感、畏怖心を取り除いてあげられるものにすべきだと思う。大学が求める英語は、研究対象として、研究の発表をする手段としての英語なのだ。英語がきらいという学生が増えれば、日本の理系はかならず崩壊する。20年後どうなるのか。理系は話す英語よりもはっきりいって、研究の英語が必要なのだ。

国際教養としての英語力を身につけさせるなら、まずは日本人に話すことをみにつけさせなければならないのではないか?

はっきりいって、今の英語教育は矛盾が多い。小中では使える英語を目指しているらしいが、その英語教育を受けて大学へ行ってもっと学ぼうとしたとき、試験は使える英語では太刀打ちできないのだ。大学はもともと学問の場である。国際人を育成する人造工場ではないのだ。

そして、僕のような人間にとって使える英語の授業をされるのは困る。なんなんだ。あの感覚的な英語は。全く意味がわからない。はっきりいって僕は今英語は読めるし、ある程度書ける。英検も2級を余裕で通った。はっきりって文法を一からきちっと学んだら、大して面接の練習をしなくても、質問を聞いて、答えを知ってる構文に当てはめてしゃべれば立派な英会話が成り立つ。あとは発音を練習すれば良い。中途半端な文法の授業を航行で行うから文法離れがおきるのだ。中学の時に学んだことなんぞ覚えてる人など少ない。これはいろんな学者がすでにかなり述べていることでもある。もし覚えているのであれば、全国の両親が中学の先生が出来てもいいのではないか?だがそれほど覚えている人はどれほどいるか。

今まで、国語力がままならないのに教えるのはいかがなものかと思っていたが、よくよく考えると、現状が国語力がままならないのであって、英語教育を導入したからそれが発生するとはいえない。しかし、現状が悪いのが見えているのに、その上にさらに積んでどうする?基礎工事のなっていない状態で家を建てると、耐震偽装みたいな話になってしまう。そういう教育を受けると、表面的には出来るかも知れないが、英語でのシャレやちょっとした難しいことで簡単にポキッと折れてしまう。

英語を強制するのではなく、語学を学ぶ楽しさを教えてもいいのではないか?まずは足元を見直すべきだ。日本にもたくさん良い話がある。昔話など、さまざまなことを考えるのに役立つ。中国の話も日本人には理解しやすいところが多いと思う。故人の偉大な業績を見直さずに、先ばかり見ていると、かならず待っているのは崩壊であろう。まずは足元を見て、安全になれば未来を見るべきである。

今の日本の教育は、橋がかかっていない崖を、見えない橋がかかってると思い突き進む状態だ。いや、すこしこれには間違いがあるかもしれない。崩れかかった橋を渡り終えた、勉強できることしか知らない人間が、崩れ落ちた橋のあとを、若い者に渡って来いといっているようなものだ。若者はそうやって潰される。そして、わたりきったものの言うことを信じてわたると、奈落のそこに突き落とされ、引きこもったり、目標を失ったり、凶行にでたりする。ぜひとも今、若者を救うためにもじっくりと考えるべきである。

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
MAIL
URL
コメント
PASS   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
プロフィール
HN:
葡拿寡
年齢:
36
性別:
男性
誕生日:
1987/12/02
職業:
大学院生&塾講
趣味:
読書
自己紹介:
大阪市内に住む大学院生です。
専攻は国文学で、「諏方縁起」を中心に研究を進めていました。

しばらく、更新していなかったのですが、やっとこさログインできるようになったので、更新していこうと思います。
最新コメント
[07/31 Wearrible]
[05/28 Flowertoott]
[05/04 葡拿寡]
[05/04 葡拿寡]
[04/28 未来]
最新トラックバック
バーコード
ブログ内検索
カウンター
忍者ポイント広告
フリーエリア
material by:=ポカポカ色=
忍者ブログ [PR]